スペイン大人留学

人生のターニングポイントと言われる不惑の年40歳。一度はあきらめたスペイン留学を志す。

「スペイン式 ピソ狂騒曲」 ~その4~

 「浅野さん、スペイン留学大変だったんですねー」

 

このブログを読んだ人は口々にそんな労いの言葉をかけてくれる。

確かにその通りで、あの‘事件’から9年近く経った今(2020年10月)でも、昔話として笑い飛ばせるようなったが、傷が癒えたわけではない。特に寒空の中スーツケース2つを引きずる不惑のハポネサ(私)の姿を思い浮かべると、哀れな気持ちになり、切なくもなる。 

さて前回まで不運続きだったハポネサ。彼女が長年思い描いていた夢の留学生活は打ち砕かれてしまうのか?

 

■やっぱり日本人!?

‘事件’の翌朝、ホテルから大学へ向かった。アナというスペイン語学研修の教授と道中で一緒になる。

 

彼女はスペイン南部アンダルシア地方出身で、黒髪、黒目で彫りの深い顔立ちをしている。アンダルシア人特有の早口で、しかも「S(エス)」の発音をしない。外国人の私には聞き取りにくいスペイン語を話す。それもあってか、自分から話題を切り出すのは気が引けたが、事件について客観的な意見を聞いてみたくなった。そこで、とりあえず英語で昨日の出来事を話してみた。

 

「それは普通ではないわね。警察ごとよ。何で警察を呼ばなかったの? あなた、日本大使館へ行って事情を話して、何らかの手助けをしてもらうべきよ」

 

そうか-、なるほど。日本大使館とは、考えていなかった。

ちょうど在留届けを提出しようと思っていたし、行ってみるか。藁にでもすがりたい思いでいた私は、授業を終えるとすぐに大使館へ。

 

マドリード市の中心から少し離れた高級住宅街に日本大使館はある。

受付窓口へ行くと、「在留届けですか?」と機械的な声が聞こえてきた。久しぶりの日本語だ。簡単に用件を話すと、担当者らしき小柄な女性が現れた。年は30代後半で私と近いように見える。アポなしの来客、それも「ピソの女家主と一悶着あった件を聞いてほしい」という相談者の登場に、明らかに戸惑っている様子。それでも別室に案内してくれた。

 

「それはお気の毒でしたね。スペインは今経済危機の状態なので、自宅に下宿させて、その収入で生計を立てている人が少なくないんですよ。その女性は、あなたがいなくなると知って危機感を持ち、軟禁状態にまで追い込んだのでしょうね。」

その通りです。

 

「でもなぜ、警察を呼ばなかったのですか?」

ここでも警察か。

 

連絡する手段が無かったこと、連絡できたとしても私の頼りないスペイン語でどこまで意思を伝えられたのかが疑問だったからだ。それよりもっと恐れていたのは、警察を呼んで騒ぎが大きくなり、彼女から更なる不当な金銭の要求をされることだった。これ以上、あの狂女に一銭たりとも払いたくなかった。

 

大使館職員は親身に話を聞き、頷いてくれた。そのためか、これまでの緊張感が解き放たれ、思わず涙が出てしまった。ふだんはセンチメンタルな感情を表面に出さないように常に努めている私も、この時ばかりは違った。

 

職員は突然の私の涙に動揺しながらも、言葉を続けた。

 

「あなたの世話人が大使館職員であれば、弁護士もご存じなのではないでしょうか?その人に相談するのも一つですよ」

確かに。ただ黙って怯えるよりも、先手を打った策を練るのも一つかもいれない。

 

直接的な手助けは無かったけれども、この大使館訪問は心の救いになった。

 

 

■捨てる神あれば・・・

帰り道、ようやく携帯電話を購入した。たったの20ユーロで契約ができるとは。

(もっと早く購入しておけば、こんな事態にはならなかったのよ、藤子さん!)と自分を叱咤する。

 

それでも大使館員と話したこと、携帯電話を手に入れたことで、心は少し晴れやかになった。ホテルへ戻り、国際交流基金のSさんに昨夜の出来事をメールで報告することにした。

 

即返事がきた。

「浅野さーん、大丈夫でしたか??」

 

メールを返すと

「明日の夜、飲みに行きませんか? 本当は2人だけで飲みたいけど、私の彼も来たいっていうのでいいですか?」

 

Sさーん!!嬉しいよー。

思いがけない気遣いに、またジーンときてしまった。

 

翌日、SさんとSさんのスペイン人の彼氏Jさんの3人で、夜の8時に待ち合わせて、アンダルシア地方の料理店に出かけた。

 

スペインでの食事の取り方は日本とはかなり違う。朝はトーストやビスケット、チュロス(細長いドーナツのような揚げ菓子)で軽めに済ませ、午前10時頃におやつ、午後2時頃になるとようやく昼食タイムだ。夜7時頃にこれまた軽めのおやつを食べる人もいる。

 

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チュロス(細長いドーナツのような揚げ菓子)とチョコレート

そんなわけで夕食は夜9時頃にとるのが普通だ。レストランでのディナーともなれば夜10時スタートも当たり前。スペイン人は寝ている時以外は始終食べているように見える。

 

日本ではいつも夜8時前に食事を済ませていた私にとって、遅い夕食はただただ苦痛だった。当然のように翌日は胃もたれ。それでもいつの間にか慣れていくのだから不思議である。

 

お目当てのアンダルシア料理店はすでに8時だというのにまだ開店前だった。なんとオープンは9時。時間をつぶそうと3人でブラついていると、一度は訪れたいと思っていたバルに遭遇した。

 

店名は「El Sur(南)」。名匠ビクトル・エリセ監督作品『エル・スール』と同じ名だ。古今東西の映画を上映する国営の映画館「シネ・ドレ」の近くにあることからも、映画好きが集まる店であることがわかる。ここで一杯飲んで待つことにした。店は開店したばかりで、お客は私たち以外誰もいない。女店主は愛想良く、オリーブやトルティーヤ(スペイン風オムレツ)が美味しい。辺りを見渡すと、店の壁には『エル・スール』はもちろん、アルモドバルの『トーク・トゥー・ハー』、『フラメンコ』など、スペイン名作映画のポスターがところ狭しと貼られている。

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映画好きが集まるバル『El Sur』

 

   

9時を回ったので料理店に戻った。油が多めのフライ料理に桜エビの天ぷら、揚げ茄子のような料理などを堪能。来てみたかったお店で気を許せる人たちと過ごしていると、自然に笑顔になる。

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アンダルシア料理の代表的なメニューの1つ、揚げもの料理

 

狂女に浴びせかけられた毒気が完全に抜け切れない私の心に、SさんとJさんの言葉は、スッと入り込んで癒してくれる。胃袋だけでなく、からっぽだった心が満たされていった。

 

つい2日前、スーツケースを引きずりながら夜の街をさまよい歩いていた私。レストランの窓越しに見えた笑顔の人々が恨めしく思えた。でも今はあの笑顔のなかに自分がいる。

 

不運続きで出鼻をくじかれ、帰国を考えたこともあった。それでも、思い止まることができたのは、出会った人たちの、こんなさりげない励ましがあったからだ。苦い経験をしたからこそ、得られた出会いと喜び。留学生活は始まったばかりだ。

「スペイン式 ピソ狂騒曲」 ~その3~

■捨てる神あれば・・・ 

マドリードの夜道。街灯が少なく薄暗い。スーツケース2つを引きずり、肩を落としてトボトボと歩く。

 

40歳を過ぎてこの様か…。高校、大学時代の留学でもこんな惨事(所持金は盗まれ、家主と喧嘩して家を出るなんて事態)は起きなかったと、自分の未熟さと準備の悪さを責め立てる。アルモドバルの映画に憧れていたからといって、スペインに来たのは間違いだったのか…。

 

(こんな思いまでして、残り5か月間過ごせるのかなー?)

「帰国」の二文字が頭をよぎり、長年の夢に近づき得られたはずの高揚感を払いのける。

 

近所の犬が私に向かって吠え立てた。小心者の私は何にでもすぐにビクつくが、この時ばかりは驚きすぎて声も出なかった。そしてキョロキョロと不審者がいないか辺りを見渡す。誰もいないが、不安にかられ早足で大通りまでたどり着く。バルの明るい店内で楽しそうに飲んでいる老若男女の姿が見えた。

 

じっと見ていたらますます悲しくなってきた。

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マドリードのとあるバル

 

タクシーを止める。(ドライバーが変な人だったら嫌だな)と、不安で不安で、何もかもに疑心暗鬼になっている私。

 

大荷物を抱えた私を見た初老のドライバーは、タクシーから降り、不自由な足を引きずりながらスーツケースをトランクに詰めてくれた。レディとして扱われたことで、打ちひしがれていた心が少し軽くなった。

 

知人のウリオルが予約してくれたオステルの近くにあるマドリード市の中心広場プエルタ・デル・ソルまで行ってくださいと伝え、若干気を良くしていた私は、日本からきた留学生であることをドライバーに勝手に話始めた。人が恋しかったのか、まともな会話を求めていたのか、下手なスペイン語で自ら声をかけた自分の行動に驚きながら、彼のタクシー歴などを尋ねてみた。

 

すると彼はタバコの吸い過ぎでつぶれたようなハスキー声で、40年にわたるタクシー人生をやさしく語って聞かせてくれた。スペイン生まれ。若い頃はイギリスやドイツなど、ヨーロッパ各国でタクシー業を営んでいたという。そうするなかで奧さんと出会い、マドリードに戻ったそうだ。今は子供が2人がいることも教えてくれた。

 

「一番運転しやすい街はどこ?」

 

「それはもちろんマドリードさ。Esta ciudad es maravillosa!(この都市は最高だよ!)」

 

そう告げられた瞬間、タクシーのヘッドライトが観光名所の記念碑「プエルタ・デ・トレード」を照らし出した。光り輝くそれは、まるで夢の国のメリーゴーランドのように見えた。

 

(「maravillosa=最高な」は、こんな景色を指して使うんだー、女性形容詞なんだなー)などと冷静に文法を確認しつつ、この言葉が持つ真の意味を理解できたという満足感がこみ上げてきた。

 

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メトロポリスビル:マドリードのランドーマーク的存在の保険会社のビル

 

もしかしたら、意気消沈した自分を少しでも元気づけるために、もう一人の私が自作自演したのかもしれない。それでもよかった。氷のように固まりかけていた心が穏やかに溶けていく気がした。

 

20分ほどおじさんとの心和む会話を楽しんだ。

 

目的地に着いてタクシーから降りかかった時、「スリには気をつけて」と、おじさんは人差し指を目の下にあてた。日本でいうアッカンベーの、舌の「ベー」がないジェスチャーだ。これはスペインで「要注意」の意味。これもまた、その日の午前中に大学の授業でホアン先生から学んだばかりだった。

 

「あー、ホアン、あなたの教えは、私のマドリード生活ですぐに実践できるモノばかりだよ!Gracias! (ありがとう!)」

 

  • 何てステキなの!

広場には木曜の夜にも関わらず、観光客や騒がしい若者たち、パントマイマー、労働集会、そして見回りの警官たちでぐちゃぐちゃになっていた。

 

「プエルタ・デル・ソル」は、サッカーのワールドカップやヨーロッパカップでスペインが優勝した時に選手が訪れ、凱旋集会が開かれることで有名だ。そのほかにも政治集会やデモなどにも利用されている。一方で、不法移民がスリのチャンスを狙い、酒やドラッグの違法な売買も横行している危険な場所でもある。

 

そこから再びスーツケースを引きずり、ウリオルが予約してくれたホステルへ向かった。

 

マドリードは東京と違い、簡単に徒歩で移動できる。歌舞伎町のような風俗店とショッピング街、バルが軒を連ねる通りを抜け、チュエカ地区にある「Hostel Dolcevita」、日本語で言うなら「ホテル 甘い生活」を目指した。フェデリコ・フェリーニ監督によるイタリア映画の名作『甘い生活』にちなんだのかな、と思う。

 

赤いネオンサイン。ベルを鳴らし、滞在客であることを告げる。ドアの鍵が自動で解除された。えっちらおっちらと、5階にある受付へ向かった。

 

なんとそこにはウリオルがいるではないか!

 

ようやく知り合いに会えた安堵感が沸き上がる。彼も私を見つけ、喜び、そしてすぐに謝罪の言葉を口にした。

「パパから借りた携帯のバッテリーが切れて、連絡が出来なくてごめんね。大丈夫だった?」

 

一瞬、なんてタイミングの悪い人だろうとイラッとしたが、私はチェックインすることも忘れて堰を切ったかのように狂女との戦いについて話し出した。

 

「その人、頭がおかしいんじゃないか。ペドロ・アルモドバル映画に出てくる女みたいだ」

 

アルモドバル監督作品には狂女の登場が付き物だが、そんな女性がその辺にもよくいるよというわけではないらしい。ウリオルはこう続けた。

「藤子、ごめんね。君の話をゆっくり聞いてあげたいけど、これからクラスメートと打ち上げがあるんだ。僕は明日、日本に帰るからね。そうだ、良かったら君も来るかい?」

 

携帯電話の不通に続いて、またもやタイミングが悪さを感じる。疲労困憊した今の私に、これ以上スペイン語漬けの環境は毒だと思い、丁寧に断った。よって、ここでウリオルともお別れだ。若干の間の悪さは続いたものの、彼の存在が私を勇気づけてくれたことには間違いない。

 

そんな私たちの会話の一部始終を黙って聞いていた男性スタッフがチェックインを促した。背が高く、ブロンドの短髪、清潔感のある容姿だ。赤いパスポートを出して見せると彼は、

 

「Qué bonito! (なんて素敵なの!このパスポート)」

 

と、満面の笑顔で褒めてくれた。しかも、お姉口調で。

 

一瞬彼の意外な言葉、というか人となりに驚いたが、心の氷がほぼ解けて潤いとなり、今度は心が温まっていくのを感じた。片言のスペイン語で話しをすると、私の一言一言に反応してくれる。ちょっと過剰気味に。

 

「あなた、今日はお疲れのようね。だから静かなお部屋を用意したワ」

 

私とウリオリの会話を聞いていたのね。

姉さんの気遣いにジーンときてしまった。

 

部屋に入ると、赤、緑、黄色のど派手な3色でコーディネートされた内装にクラっとする。なんだかここもアルモドバルっぽいなぁ。小さなスペースだがベッドとソファ、机があり、私ひとりには十分だ。

 

部屋が小さくても、外のネオンがゲイの方々の好みっぽくても、受付のお兄さんがゲイでも、このホステルを選んで良かったと心底思った。華やかで賑やかな色たちに包まれて、その日に起きたどんより暗い出来事を振り返りながら深い眠りについた。

 

それでも待望のスペイン留学の出鼻をくじかれたことに変りはない。

そして、次の日の朝を迎える・・・。

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マドリード朝8時



「スペイン式 ピソ狂騒曲」 ~その2~

重い腰をようやく上げた女家主

ピソの玄関を開けると残り香ならぬ、怒りの雰囲気が残っていた。

リビングルームへ行くと、このピソの家主が、コーヒーを飲みながら電話をしている。

グレーのパンツスーツを身につけ、背の高い彼女には似合っていた。

 

「ようやく、就活するのね」と思う。

彼女は私がこのピソに移り住んで、3日後に仕事をクビになっていた。彼女曰く、女性であること、独身、40歳過ぎという年齢に対する差別的な見方により、スペインではこのような雇用整理が珍しくないらしい。

 

私がちょうどスペインへ訪れた頃の失業率は25%。その内の50%が20代の若者だとニュースでは頻繁に報じられていた。EU内では、GDP第4位を誇るスペインだが、ここまで経済が脆弱しているとは。私は目の前でその現実を目撃することになったのだ。

 

私からの家賃収入を当てにしていたのか、失業しても一日中家でゴロゴロとテレビを見ていた彼女。その姿に、「早く仕事を探せばいいのに。働かざる者食うべからず」と心の中でつぶやく私。

 

ちなみに、彼女はパイロットの男性と昨夏に離婚していた。

 

職無し、不惑の年を過ぎた43歳、バツイチ。

 

おまけに、収入源の日本人留学生(私)がピソを出ると言い出す始末。

「この人は厄年かしら?」と思うほど、不運が降りかかっているように見える。

それでも、私がこのピソから出ると告げたとたんに就活をし始めるとは、何ともわかりやすい人でもある。

 

電話の長話は終わりそうもない。しょうがないのでメモを渡した。今日出て行くこと、スーツケースを物置から部屋へ持ってきてほしい旨を書き記す。入居時にスーツケースを彼女が管理する物置に預けたのは失策だった。「人質」を取られているようなもので、ずっと気がかりだった。

 

ペドロ・アルモドバル映画に匹敵する狂女

彼女は電話を終え、私のスーツケースを持って部屋に入ってきた。ひとまず人質は解放されたと安心。

そのかわりに、彼女は新たな不安の種を残していった。手書きの書類だ。そこには、今回の退去に関する一切の責任が私にあると書いてある。しかも退去費用として400ユーロを払えと! スペイン語がおぼつかない私でも、わが身に降りかからんとする‘悪い知らせ’は直感で読み取れる。

 

私はすぐさま台所にいる彼女に、冷静にこう伝えた。

 

「契約書も交わしていないのだから、この書類にサインはできない」

 

私の言葉に彼女は眉をつり上げ、顔つきを変えた。

「スペインでは退去1ヶ月前に申告して出て行くのが普通。それを怠ったのだから、1ヶ月分は払って当然なのよ」

 

人が下手に出ればつけ上がって!スペイン語が出来ない弱者だと思って!

瞬間湯沸かし器のごとく、私の頭の中で何かが発火し、脳が沸騰しはじめた。

 

スペイン語で反論できないもどかしさから、反射的に英語でまくし立てた。

今考えれば、日本語の、それも関西弁でまくし立てたほうが迫力はあったかもしれない。

 

「契約書は交わしてないから400ユーロを払う義務もない!私の世話人もそう言っている!」

 

彼女は英語がほとんどわからないので、キョトンとしていた。

そして、スペイン語で私の10倍の勢いでまくし立て返された。早口な言葉の嵐で何を言っているのかわからない。が、ペドロ・アルモドバル映画に登場する狂女ばりの形相だ。頭を沸騰させながらも、この状況を客観視して彼女を分析している自分がいる。

 

“Qué cara tienes! (何て図々しいの!)”

彼女は片手で自分の頬を軽く叩くジェスチャーをした。

 

スペイン人は大げさなくらい、身体全体を使ったジェスチャーで表現する。

この日の午前中の授業で、私の大好きなホアン先生から「スペイン人が頻繁に使うジェスチャー」について学んだばかりだった。「自分の頬を叩く」=「図々しいヤツめ」。

こんなにすぐに役立つとは!

 

「私はサインもしないし、400ユーロも払わない。私の世話人にもう一度確認する必要がある」

 

言い争っても事が収まらないので、私はそう言い切って自分の部屋へ戻った――。

 

私は携帯電話を持っていなかったため、スカイプ世話人に連絡を取ることにした。彼女は某大使館の職員だ。そのため日中は激務だと聞いていた。案の定、連絡が取れなかった。スペイン語の先生・ウリオルに電話しても留守だ。こんな時に限って、頼りにしていた2人と連絡が取れない。

 

その時、国際交流基金マドリード事務所の職員Sさんからメールが届いた。3月に開催する「震災特集」の連絡だった。仕事を通じて親しくなったSさんとはバルで飲んだり、毎日連絡を取り合ったりするような、互いに蜜月状態を楽しんでいた。彼女にSOSメールを送ることも思いついたが、迷ったあげく止めることにした。直接関係のない事態に巻き込みたくなかったのだ。

 

今思えば、ここでメールを書いていたら、少しは状況が好転していたかもしれない・・・。

 

■自由剥奪

頼りにしていた人たちへ、今の状況をメールしようとしていたら、突然インターネットへアクセスできなくなった。今さっきまで使えていたのに。

もしかしたら、家主が無線LAN を切ったのでは? 疑心暗鬼のまま忍び足でルーター(無線の親機)のあるリビングを覗くと、悪い予感が見事的中、狂女がルーター付近でケーブルをいじっている。

 

そう、私が外部と連絡を取れないようにするため、回線を切っていたのだ!!

携帯電話を持たず、インターネットのみが外部と連絡できる唯一のツールであることを、狂女は知っていたのだ。

 

敵の攻撃はまだ続く。極めつけは、ノック無しで突然私の部屋に踏み込み、机の上にあった家の鍵を奪い取っていった。

 

ここまでする?

もしかしたら「書類にサインして400ユーロ払わないと、この家から一歩も出さないわよ」ということ? えっ、これって軟禁状態って言うんじゃないの?

ニュースや映画で見たことがある、何日も部屋から出してもらえず、食事も与えられずのあれなの?

 

怒りの感情を通りこして、沸々と恐怖心が湧きあがってきた。狂女は恐女に変身を遂げたのだ。

 

「落ち着け、落ち着け私・・・」と自分に言い聞かせる。

そして、この状態からどう脱出するか冷静に考えた。

 

  • 部屋の窓から飛び降りる(3階)
  • 窓から叫んで、助けを求める
  • 署名して400ユーロを払って、さっさと出る

 

恐女が次の一手を打ってくる前に、一刻も早くここを出なくては。

 

「3」を選んだ。不本意な書類にサインして400ユーロを失う悔しさよりも命が大事だった。

 

全ての支度を終え、2つのスーツケースを引きずり、書名した書類と400ユーロを無言で恐女に手渡した。

 

“Abre la puerta!(玄関の戸を開けてよ!)” 

 

恐女は一瞬驚いた表情を見せたが、くわえタバコのまま同じく無言で戸を開けた。

エレベータに乗り込むと、恐女が怒りにまかせて戸を閉める「バタン!」という音が響いた。

 

エレベータ内で、私は安堵と開放感に満たされた。

闘いは終わったのだ――。

 

しかし、そんな時間は長くは続かない。

外に出た途端、新たな不安に駆られた。すでに夜7時を廻り、辺りは真っ暗になっていた。1月のマドリードは日の入りが早い。ピソに戻ったのが夕方4時頃だったから、あっという間に3時間が経過していたのか…。

 

地下鉄での移動を考えたが、メトロ近くに駐車している車のタイヤが毎日のように強奪されていたのを思い出す。ここは、お金を多少かけても安全第一、タクシーを使うことにした。

 

~ ~ ~

マドリードの寒空の中、スーツケースを引きずりながらホステルへ向かった。

 

「スペイン式 ピソ狂騒曲」 ~その3~ へ続く

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マドリード市民のオアシス、レティロ公園

 

「スペイン式 ピソ狂騒曲」 ~その1~

 「眠れない…」

 

真っ暗な部屋の天井を見つめ、いつになったら眠りにつけるのか、翌日の授業を心配しながら安眠を願うのだった。

 

時差ボケは時差がある国に行けば誰しもが直面する。私の場合、4~5日は時差ボケを引きずる。それを軽減するため、飛行機に搭乗する24時間前は飲酒を控え、現地到着が夕方か夜になる便を選ぶようにしている。それでも旅の昂揚感やお酒の誘惑に負けて、機内で飲んでしまうのだが…。

 

今回のスペイン留学は、ビザの都合で、大学が始まる1日前の入国となった。そのため、隣国フランスのパリで3日間過ごして、少しでも時差ボケを解消させる対策を施していた。それにもかかわらず、スペイン入りから10日を経過しても時差ボケは続いていた。

 

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朝8時のマドリード

■ホームシックなの!?

 2月から始まる正規授業に備えて、私は1ヶ月間のスペイン語語学研修を受けていた。そこで出会ったマドリード出身のホアン先生(男性)は、授業が始まる前に必ずこの常套句を生徒に投げる。

 

「最近の出来事でシェアしたいことや質問はあるかい?なんならジョークでもいいよ」

 

そこでアメリカ出身の女子留学生リッキーが、アメリカ人訛りのスペイン語でつぶやく。

「私、ホームシックみたい…」

 

ホアン先生の顔が急にシリアスになる。

「なぜだい?」

 

リッキー:

「最近、笑わなくなったの。いつもアメリカの家族のことを考えているし」

 

ホアン先生:

「リッキー、ホームシックは辛いと思うが、君は人生のなかですごく貴重な体験をしているんだ。それを胸に秘めるんだよ」

 

そんな感じで会話は続いていたが、いつの間にか2人の姿は私の視界からフェードアウトしていった。そして、ふと思う。

 

(私はホームシックにかかっているのかしら?)

これまで経験したことのない不眠状態、これはホームシック? いやいや、ただの時差ボケだろう。でも、食欲が無くなってきているし、白髪も増えているような気が…。

 

ホームシックが原因かは今も定かではないが、確かなことは身体が不調を訴えていたこと。2人の会話はそれに気づくきっかけになった。

 

■この人、信用できる?

 スペインでは大きめのピソ(アパート)を借りて、3~4人でシェアをする人が多い。元締めになって、家賃収入で生計を立てる人もいるくらいだ。日本でもこの住居スタイルは「シェアハウス」や「ソーシャルアパートメント」と呼ばれ、最近では若者を中心に人気があるようだ。

 

到着直後の滞在先は、44歳のスペイン人女性宅だった。私の身元引受人からその家を紹介されたのは、映画祭準備の仕事が多忙な時期だった。所在地をgoogleなどで検索し、しっかりと吟味することなく選んだ家だった。「見つかってラッキー!」程度の考えで決めてしまったのである。実はその判断が、予想もしなかったとんでもない展開を招くことに……。

 

私が不審に思い始めたのは滞在3日目からだ。実は私、スペイン入りしたマドリード空港で1ヶ月分の生活費を盗まれてしまっていた。そんなわけですぐに滞在費を払えないことを伝えた時の彼女の表情は、今も鮮明に思い出すことができる。

 

盗難に気づいてすぐに奨学金を支給する団体には連絡を取っていた。緊急案件として送金の手続きをしてもらっていたので、家賃の支払いを待ってもらうのはせいぜい1週間程度だ。そのことをシンプルなスペイン語で伝える。

 

ところが、「えっ?!」と彼女の表情と態度が一変。私の言葉がわからないの?心配しているの?それとも怒っているの? と、戸惑う。実際、彼女はただただ怒っていたのだ。

 

異国の地で大金(私には)を盗まれ、意気消沈しているのに、「大変だったわね」の一言もない。むしろ大いに腹を立てている。言葉がわからないから彼女の表情や身振りから解読したのだが、非常に不愉快に思っているようだ。その日から夕食を共にする度に家賃を催促された。日本では感じたことがないたぐいのストレスがこみ上げてきた。

 

さらに悪いことが重なる。滞在先から大学まで、地下鉄を2つ乗り継いで往復3時間もかかるのだ。乗り物に酔いやすい私は毎日ぐったりしていた。スペイン語に囲まれた新生活に、このダブルパンチは効いた。

 

眠れない、食べれない、気持ち悪い。

身体が痩せ細っていくような感覚のなか、精神的にも弱くなっている気がした。

 

そんな、生気を失いつつあった私に、知人がマドリードを訪れているという吉報が届く。東京でスペイン語を教えてくれたウリオル先生が、スペイン語教授法を学ぶために私と同じ大学を訪れたのだ。私が通学していた大学はスペイン語教授法では有名。設立者はスペイン語文法を書におこした偉人だ。

 

個人的な話もできる打ち解けた仲だったので、さっそく会いに行って現状について相談した。すると、「契約書を交わしていないなら、そこを出るのは問題無いよ。ピソを変えるのはスペインではよくあることだ。大学の近くにすぐに引越した方がいい」

 

そうなのかという安心感と同時に、「本当かなー?」という疑問も拭いきれない。そこで私の世話人にも同じことを尋ねてみた。「(ウリオル先生の助言の通り)問題ないよ」。ほっとした。

 

2人がそう言うなら善は急げ、だ。その日の夕方、思い切って家主にビソを出る意志を伝えることにした。

 

案の定、彼女は鬼の形相に。(おそらく)「約束が違う!」といったようなスペイン語を交えて怒鳴り散らした。そのまま互いの部屋に分かれ、気まずい雰囲気に。その夜もまた、眠れず……。

 

私は中途半端な状況が一番嫌いだ。なので、手紙を書くことにした。今の金銭的な事情や体調がすぐれないこと、そして感謝の気持ちも。そうしたことを書き並べ、翌朝、そっとキッチンに残して学校へ向かった。

 

その日、大学のカフェテリアで再度ウリオル先生に会い、昨夜の出来事を含めて相談した。

 

「君がその家にいたくなかったら、すぐに出た方がいいよ。僕がいる安宿、紹介しようか? なんなら授業が終わったら、僕も一緒に君のピソに行って、荷物を引き上げようか?」

 

「うー、ありがとうウリオル(感涙)。でも私もいい大人だし、荷物の運び出しは自分でできるから大丈夫。安宿の予約だけ手伝ってくれー」

 

独立心旺盛な私。彼の優しい申し出を断って、再び‘戦場’へと戻るのでした。

 

「スペイン式 ピソ狂騒曲」 ~その2 へ続く――

¿Tiene un bocadillo de camalero? (カマレロ入りのボカディーヨはありますか?)

 2012年1月上旬、マドリードに到着。

 

着くや否やスペイン人から異口同音に「イカリングのボカディーヨ(スペイン風サンドイッチ)は食べたか?」と聞かれた。ここは、イカリングのボカディーヨが有名らしい。

 

「なんで、海のないマドリードイカリングなの?」と疑問に思いつつも、頭の片隅に保存。きわめつけは、日本大使館の日本人関係者も同じことを言うのだ。そんなに有名なのか。

 

ならば、と重い腰を上げて有名店に足を運ぶことにした。

 

スペインの首都マドリードは、国土のちょうど中心に位置し、海沿いの都市バルセロナ(北東)、バレンシア(南東)、ヒホン(北)からなら陸路5時間程度の輸送で海産物が集まる。そのため、市内にあるメルカド(市場)にはいつも新鮮な魚介類がズラリと並んでいる。その有名店は、観光客で賑わう「サン・ミゲル市場」の近くにあった。イカリングのボカディーヨ専門店だ。 

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サン・ミゲル市場

スペインはヨーロッパ南西イベリア半島に位置する。人口約4,719万人(2011年1月)、面積50.6万平方キロメートル(日本の約1.3倍)。

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スペイン

マドリード市中心に位置する夜のサン・ミゲル市場。終日観光客で賑わっている。

 

スペイン語がまだおぼつかない私にとって、店で注文するのは至難の業。「NHKラジオ講座」で覚えたフレーズを思い出し、勇気を振り絞って注文した。

 

「¿Tiene un bocadillo de camalero?(カマレロ入りのボカディーヨはありますか?)」

 

20代の若い店員は一瞬ためらい、ぶっちょう面で「Sí, un momento(はい、少々お待ちを)」。

愛想はないが、客の注文をてきぱきと寡黙にこなす店員は、もろ私の好みだった。

 

出されたボカディーヨには、パン粉の衣ではなく、小麦粉を軽くまぶして揚げたイカリングのみが挟み込まれていた。野菜がないサンドイッチなんて栄養のバランスが悪いわーなどと心の中でつぶやきながら一口食べる。

 

衣に特別な味付けがあるわけでなし、シンプルな、だけど塩味がほどよくきいたイカリングだった。それをビールで流し込み、またモグモグ食べる。 

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イカリングのボカディーヨ

実はこれでもミニサイズ。普通サイズだとアゴが外れるくらい大きな口を開けないと食べきれない。

 

■本当のイカリングのボカディーヨは?

 

帰宅して今日の出来事をピソの同居人であるスペイン人女性に報告。

 

「カマレロ入りのボカディーヨを食べたわ」と言うと、彼女の顔つきが変わる。発音が悪いのかなと思い、ゆっくりと繰り返した。それでも理解できないらしい。マドリードの名産であること、何が挟まれていたのかを説明した。

 

すると、「あー、camalero(カマレロ)じゃなくてcaramales(カラマレス)ね!」

えっ!? あー!そういえば、イカスペイン語でcaramales(カラマレス)だ。・・・ってことは・・・

 

「camalero(カマレロ)はスペイン語で‘店員’だった!!!」

 

つまり私は、若い店員に「bocadillo de caramales=イカリングのボカディーヨ」ではなく、「bocadillo de camalero=‘店員’入りのボカディーヨ」を注文していたのだ。なるほど、これで彼がへんな顔をしたのにも合点がいった。

 

同居人のスペイン人女性は、スペイン人らしい質問を私にした。

「¿El chico es guapo?(彼は格好よかった?)」

 

私は即座にこう返した。

「Es muy guapo y está rico(格好良かったし、‘店員入りのボカディーヨ’は美味しかったわよ」

 

スペイン語がそんなにわからなくてもジョークぐらいは言えるぞっ!そんなふうに考えて、ちょっと恥ずかしい失敗を笑い飛ばすのであった。

崖っぷち、大人留学スタート!

2010年11月。ふじこ40歳――。

 

東京国際映画祭という大イベントを終了したばかりの私は、魂が抜けた放心状態から少し回復しつつあった。2か月近く最終電車で帰宅する仕事漬けの日々だったが、終了後は、朝は定刻に家を出て、残務整理をして定時に帰宅。たまに仲間と飲んだり映画を観たり。放電状態から充電状態へスイッチングした単調な毎日だ。願っていたはずの開放的な時間。だが、疑問が。

 

「このまま、この生活でいいのだろうか?」

 

映画好きがこうじて日本国内にある2つの国際映画祭でお世話になり、週末や夏休み・冬休みを返上して13年間この仕事に打ち込んできた。家族からは「また仕事でしょ」と諦められ、温泉や外食など家族行事からも疎遠になっていた。大好きで天職と思っていた仕事だったが、振り返ると100メートルの全力疾走を13年間続けていたような気もしてくる。心身共に疲労感で一杯だった。

 

■再び留学に目覚める

 

そして自問自答。

 

自問:「もし80歳まで生きられると仮定したら、ターニングポイントである40歳からどんな40年を過ごしたい?」

 

自答:「20代で知力、財力が無いことで断念した夢を、40代になったからこそ実現させる。様々な国を訪れて悔いのない人生を謳歌する」

 

幼少から世界を旅することを夢み、20代でアメリカの大学に留学。必修科目でスペイン語を専攻したことが契機となり、その言葉の持つリズムや発音の魅力にどっぷりと浸かっていった。当然のことながら(いつしかスペイン語圏に留学したい)という願望が湧き上がるが、大学の授業料と生活費をやりくりするのが精一杯だった経済状況や、奨学金に落ちたこともあり、当時はあえなく断念。その悔いはいつでも頭の片隅にあり、時々思い出していた。

 

それから20年後。「そんなもやもや、吹き飛ばしてやる!」と急に思い立って、スペイン語を猛勉強した。でも「勉強して何になる?」と再び疑問が……。

 

そんなある日、日本における洋画作品の公開状況の資料を見ていたら、ひときわ目に引いたのが、スペイン映画の公開状況の悪さだった。2008年に日本で公開されたスペイン映画はたったの4本。巨匠ペドロ・アルモドバル監督や『アザーズ』のアレハンドロ・アメナーバル監督作品以外はほとんど公開に至らず。ちなみにスペインで公開された日本映画は19本だ。

 

当時、年間の製作本数は、日本は450本程度、それに対してスペインは380本程度。このデータからも両国の公開状況のバランスの悪さは見て取れる。(もしかしたら、スペインにはお宝映画があるかも)と、長年映画祭の仕事で培った気持ちが騒ぎだした。どうせスペイン留学を考えるなら、「埋もれた秀作を見つけ出して日本に紹介したい。そのためにスペイン映画を研究する」という目的で、助成金なり奨学金を申請してみてはどうかというアイデアも浮かんだ。

 

「でも、研究して何になる?」自問自答はまだ続く。

 

「キャリアアップ? 自己満足? このまま映画祭の仕事を続ける方が無難じゃない? 家のローンはどうするの?(などなど続く)」

 

もちろん、40歳を過ぎた留学のリスクが高いことは百も承知。特に私はフリーで扶養してくれる家族もいない。リスクは倍増する。日本を半年間不在にし、帰国後の活動はどうなるのか。拠点を日本だけに限定しない‘ノマド生活’にも憧れる。だが、果たしてその状態で自分の望む仕事はできるのだろうか?

 

でも、頭と心のハードディスクが一杯の状態で過ごし続けることには、どうしても我慢できなかったのだ。初期設定なりメモリーの増設をしない限り、限界がきている自分がそこにはいた。自己責任、家族への責任、社会人としての責任。リスクは低くないかもしれないが、もっと攻めの姿勢で仕事に向き合いたいと思った。

 

一か八か、のるかそるか。私はスペイン留学という勝負に‘のる’ことにした。

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スペイン